わからないことは聞くだけ

一昨日Grabデビューをした。
わりと日本国外へ出かけているわりに、
インドでは主にオートリキシャで移動しているし、他の国では現地の友人たちのお世話に甘えて車に乗せてもらっていたから、
自分ひとりだけでどこかへ移動、という状況が久しぶりゆえ、GrabやUberを使ったことがなかったのです。

そして、一昨日デビュー。
(Grabというのはアプリで呼べる個人タクシーのようなもので、「ここからここへ行きたいよ!」をオーダーすると、条件にあう近くを走っているドライバーさんが来てくれるやつ)

 

なんせ初めて使うから、使い方もよくわからないし、
ブックしたところで「本当に来るのかな」「来たらどうやって乗るのかな」と、まぁどきどきわくわくしていたのです。(わたしもどきどきするんだよ!どきどきしながら、でも「えーい!やってみよう」でなんでもやっているだけ。何事もどきどきしないでやれているわけではありません)

 

そして、無事にドライバーさんが来てくれて、
無事に乗車して出発したの。

そして、だいぶ家まで近づいたところで…

 

突然、車が壊れたの!

 

もう笑うよね。
というか、なぜ毎度毎度このような“ネタ”のような事件が起きるのでしょうか。笑 まじで。

 

渋滞気味の道のど真ん中で、突如動かなくなった車。
何度挑戦するも、どうしてもどうしてもエンジンがかからない。

 

このようなことが起きたら一般的には「えぇどうしよう…」と焦る人が多いのかな。きっとそうだよね。
なんせ、初めての使うシステム。「乗れるかな」というレベルでどきどきしていたのに、それどころか、超例外想定外な事件が起きたわけですからね。

 

でもさ、「どうしよう」といくら頭や心のなかで案じても、どうにもできないじゃない。
でも「どうしたらいいのかな?」はわからない。
だからドライバーさんに聞きました。「どうしたの?どうしたらいいの?」って。

 

そうしたら、「車壊れちゃったみたい。どうしよう…」って返ってきたの。
「そうかードライバーさんだって、お客さんを乗せて急に車が壊れちゃったのだもの。どうしよう…って思うはずだよね。そりゃそうだ。客側のわたしよりもむしろ、ドライバーさんのほうがどうしよう…ってなるはずだわ」ということを理解できたので、
とりあえず、ギアをニュートラルにして惰性を使って道路の端に車を寄せることにしたのです。そしてそれは成功。道路の往来の邪魔にはならないところまで移動できたところで、ドライバーさんがね、
「Grabはキャンセルするよ。だからここから自分で新しい車を探して。ごめんね」と言って、Grabの会社へ電話して、今回のブックをキャンセルしてくれました。
まるっと取り消しされたので、ここまでも無料になっちゃった。
電話を終えた後に「わたしがしないといけない手続きはあるの?」と聞きました。だって、なんせGrabを使うこと自体が初めてだからさ、わたしは手続きもなにもわからないのです。

わからないから聞く。それだけ。

そしたら、「もうキャンセルは済んでるからなにもしなくて大丈夫だよ。本当にごめんね」って。
そして「いやいや、わたしはさほど問題じゃないけれど、あなたのほうがこれから大変でしょう。グッドラックね」ということで、そこで車をおりて別れました。

この車をおりた場所が自宅まで徒歩5分くらいのところだったので、ここから歩いて帰って(しかも急な雨が降っていたのだけれど、屋根付きの道を歩いて帰れた)、事なきをえました。

 

またしても想定外の事件が起きたけれど、
結局ちゃんと良きようになった。

 

 

想定外、予想外の事件が起きたとき、ひとは「えーどうしよう…!」といって焦ったりパニックになったり、する。
けれども、自分で考えてどうしたら良いかわからないとき、どうしようもないときは、誰かやそこにいるひとに、「どうしたらいいの?」って聞けばいいだけなんですよ。

だってさ、「わからない」んでしょ。だったら、「どうしたらいい?」と聞けばいいだけでしょう?
わからないことを自分でどうにかしようとする、けれどもわからない、から困ったり焦ったりするんだよ。わからない→どうにかしようとする→けど、どうしていいかわからない→どうにかしなくちゃ→けど、わからない。のエンドレスループ。出口のないばからしさ。

わからないならとっとと聞いたらいい。そしてもし相手も「わからない」というお返事だったら、一緒に考えたらいい。あるいはまた別の誰か「知っていそうなひと」に二人揃って聞いたらいい。

 

たったそれだけのこと。

 

それを「ひとに聞かないで自分で解決しようとする。自分でどうにかしようとする」から、どうにもならなくて困ったり焦ったりするんだよ。

 

聞けばいいよ。ただ、それだけのこと。

 

もしその「聞く」ができない場合、やりづらいなぁと感じるひとは、
「自分がなぜひとに聞くことができないのか、やりづらいと感じるのか」を自分のなかで整理したら良いです。
「自分が知らない、ということをひとに知られるのは恥ずかしい」ということがあれば、それはただのエゴだよ。
そういう自分のエゴや謎の恥ずかしさが、自分の快適さを奪っているとしたら、とてもばからしくないですか?!

そんなエゴや恥ずかしさはとっととどこかへやってしまって、
わからないことは素直に聞いて、困ることや焦ることなく簡単にすすめるほうが楽ちんじゃん。

 

わたしが各国各地でなにが起きてもどうにかなっている、そしてそれを楽しめているのは、
ただこれだけのことなんです。わからないことはたくさんある、けれども、そのときは知っているひとに聞く。だから解決してる、どうにかなっている。
そして、これをやっていると「本当に人は親切だわ」と感じられるようになる。だって困っているわたしに、必要な情報を教えてくれる人が世界中にいるんだよ。それは友達とか知り合いとかではなく、ただその瞬間居合わせただけの人でもそう。聞いたら教えてくれるの。
そういう経験をしていると「人って本当に親切だなぁ。ありがとう」って思います。そして。どこの国の人もみんな親切だからどこの国に行っても大丈夫だな、という世界への信頼も生まれるのです。

 

 

わからないことは、聞こう。
ただそれだけ。
そうしたら、困ることのない道がちゃんとひらけてゆきますよ。

 

 

そんな記事を書こうとしていた今朝、
道を歩いていたら、逆に道を聞かれました。
この地に足を踏み入れてまだ1週間も経たないわたしに、道なんて聞いでもアテにならないよ!と思ったのだけれど、一応話を聞いたみたんだよね。そしたら「このモールに行きたいのだけれど、こっちで合ってる?」という話だったのだけれど、
このモールというのが、車が壊れた日にちょうど歩いてきた道のりの途中にあるものだったの。だから胸をはって答えることができました。

 

ほら、やっぱりうまくできてる。
そして今朝はわたしが、このひとにとっての「わからないことを教えてくれる親切な人」になった。

 

 

わからないことは聞こう。
そしたらちゃんと知っている人が目の前に現れて、ちゃんと教えてくれるよ。

 

 

 

 

 

❤︎記事を読んでミラクル!ハッピー!が起きたら…→豊かさの循環実験

 

 

 

 

 

 

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