ノートルダムに想うこと

早起きした今朝、
友人からの報せでノートルダム大聖堂の火災のニュースを知って、大変なショックを受けた。

ノートルダムは、パリの中でも最も好きな場所。
ガーゴイルが愛らしくて、ガーゴイル越しに見下ろす市内の景色をたくさん写真におさめたんだっけ。

 

訪れたのはもう15年くらい前。
当時まだ学生だったから、ヨーロッパ旅行で豪遊するほどのお金は持っていなかったけれど、
古い建物がそのまま残る町並みをただ歩くだけでもものすごく楽しかった。学生パスで入れる美術館もたくさん巡った。楽しかったけれど、この街ではもっともっとできる体験があるんだろうなぁとは思っていて、
歳をとってお金と時間に余裕ができたらまた絶対に来ようと決めていた街・パリ。

「また行く」の前にあの大聖堂が燃えてしまったというショック。

 

けれども一方で、
「あのときに行っておいて本当に良かった」
とも思った。

 

いつも言っていることだけれど、
その場所も、
その人も、
その建物も、
そして自分も、
いつまでそこに当たり前にあるか、なんてわからない。
今日あったものが明日なくなることも、
明日どころか数時間後、数瞬後になくなることだってあるんだよ。

諸行無常は絶対的な真理だから、
物質的なそれらは必ずなくなる、変わってゆく。

 

だから。

行きたいところに行く。
会いたい人には会う。
やりたいことはやる。
伝えたいことは伝える。

これをなるべく早くに行動する、を徹底するしかないんだよ。
諸行無常がいつ発動するかわからない、それは明日かもしれないし次の瞬間かもしれないから、
“なるべく、できるだけ早く” の行動をした方がいい。

 

なくなってしまってから、変わってしまってから、
「行っておけば良かった」
「会っておけば良かった」
「これを伝えたかった」
と言っても、どうにもなりません。

そしてその「どうにもならない悲しみやもどかしさ」を八つ当たりという形に変えて、
「どうしてそんなことになったの?」
「原因は何?」
「何が悪かったのだろう?」
ということを議論しても意味ないよ。
もちろん、「同じようなショックな出来事がまた次に起きることを防ぐための対策」として、原因や犯人を突き止めて、次に起きることを予防するのは建設的なこと。

そうじゃなくて、自身の悲しさやもどかしさに向き合いたくないゆえ、「どうしてそうなったのか?」の議論に熱をあげても意味ないよ、ということです。自分の内で起きている問題をすり替えないように。

行かなかった、
会わなかった、
伝えなかった、
そういう「自分がやらなかった行動」を反省して、しっかり落ち込んだらいいよ。
そして「次からはそのような後悔が起きないように」を胸に刻んで、後悔のなき行動をするようになればいいのです。

 

 

誰かが亡くなるたびに、
病気になったという話を聞くたびに、
このような事件や事故のニュースのたびに、
いつもいつも思っているし言い続けているけれど、
それでもいつまでも「ああしておけば良かった」という声が耳に入ってくるから、
心底懲り懲りして、今回もまたおなじことを言っています。

 

行きたいところは行けるうちに。
見たいものは見られるうちに。
会いたい人には会えるうちに。
伝えたいことは伝えられるうちに。

行動しよう。

 

いつかの未来にこのような後悔をしなくて済むように、
今日も納得のいく “今” の行動を選択しよう。
“今” という瞬間の積み重ねが、時間となり人生となってゆくのですから。

 

 

 

★約1年前にも同じようなことを書いてありました。
後悔しない人になる

 

 

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